250余年のあゆみ

昭和20年代

戦後の復興と事業拡大

八重洲本社

写真:八重洲本社

戦後の復興と会員の資本参加

昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国へ無条件降伏。ここに第二次世界大戦は終結しましたが、戦火の傷跡はきわめて大きく、当社にとっても生産設備はもとより、すべての建物は焼失し、企業活動は停止状態でした。しかし当社はいち早く企業活動の再興に着手し、生産設備の復旧で生産を再開、販売先薬局とのコンタクトを進めるなど事業活動を展開し、その年のうちに、「アゾール軟膏」(きりきず薬)、「ピレチン散」(風邪薬)の製造を開始しました。

また史料によると、「昭和20年8月16日早朝を期して荏原工場の地に社員の手によって復興がはじめられ」とあり、男性社員のほとんどが兵役にとられ男手のない中、年老いた人々と女性従業員というきわめて少人数の力によって、工場と本社の再建の第一歩が記されました。当時を知る人からの伝聞では、「工場を再建するにしても、その資材はほとんどなく、従業員1人ひとりが大変な苦労をし、それこそ木材1本、釘1本、トタン1枚などをあちこちからかき集め、ようやく建物をつくりあげた。また、機械器具を揃えるのも大変なことで、機械も従業員の手製のものから揃えられた」と語られています。

昭和26年の製品目録

写真:昭和26年の製品目録

一方、営業の面でもチェーン組織の復興に注力しました。食糧不足の当時は食べ物を持参しなくては旅館に泊めてもらえなかったため、当社の社員たちはお米をリュックに入れて全国の薬局を訪れ、営業活動をおこなっていました。

また、当時は衛生状態が極めて悪く、チフス、赤痢、結核などが蔓延し、庶民の間で薬へのニーズは高まっていました。しかし占領軍・政府による統制で、製薬メーカーは原料や資材を手にいれることができず生産もままならない状態が続きました。

こうした中、昭和23年の増資に際してチェーン会員も出資を行い、そこからチェーン会員の持ち株は過半数を超え、事実上、会員優先の経営を取る会社となりました。

銀座本社

写真:銀座本社

事業の拡大から蹉跌への道

占領軍による統制時代を経て、いよいよ高度成長期へと向かうこの時期、当社も大いに成長を遂げました。

資本金は昭和23年70万円から昭和30年9500万円、従業員数は昭和25年174名から昭和31年600名。

製品数は昭和25年69種類から昭和29年165種類、チェーン会員数は昭和29年4000店と事業拡大の足跡を見ることができます。

大阪支社

写真:大阪支社

昭和26年(1951年)12月には、江戸時代から続く創業地(現在の八重洲)を離れ、本社を銀座に移転新築。

同時に大阪支店も移転新築しました。

うさぎマーク

写真:うさぎマーク

また、新聞広告、ラジオ広告、薬局繁栄講座の全国開催、「家庭の衛生」の発行、会員互助会組織「エスエス・ブラザース・アソシエーション」(SBA)の発足など活発な動きがありました。

昭和27年には、「うさぎマーク」がエスエスチェーンの統一マークに決定。エスエス製品のブランドマークや社章として使用され始めました。

蒲田工場

写真:蒲田工場

昭和28年(1953年)、蒲田工場・研究所を新設。昭和29年(1954年)、チェーン会員数4000店、製品数165種類となり、はじめて戦前のレベルを超え、昭和30年(1955年)は、TV-CMも開始するなど経営活動は活況を呈しました。

しかし昭和33年(1958年)2月、金融操作の誤りから経営不振に陥り、これにより当時の社長の六代目・白井正助が退陣し、土手守吉が社長に就任。

江戸創業以来つづいた白井一族の手を離れることになり、11月には泰道三八(後に照山と改名)が社長に就任しました。

シンボルマークが”うさぎ”になったのは・・・

日本神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)が因幡の白うさぎの傷を蒲の穂綿を使って治療したという物語が、日本の歴史上はじめて登場する薬らしきものであったということと、さらに「白い」という清潔感、「とび・跳ねる」という躍動感など、いくつもの意味を含んだ存在であることから、シンボルマークにふさわしいということになりました。

シンボルマークが”うさぎ”になったのは・・・